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桶川市・北本市史跡めぐり

5月20日(日)桶川・北本の史跡を探訪する、蕨史跡研究会に参加しました。

蕨駅改札9時20分集合・出発~浦和駅~桶川駅から歩いて、さいたま文学館に行きました。

さいたま文学館
埼玉県ゆかりの文学者の作品や文学関係資料を収集・保管・展示するとともに、文芸講演会や映画会、各種講座などの普及事業も行っている。

展示室は3つに分かれており、展示室1では、ビデオやパソコン地図で「埼玉の文学」を分かりやすく解説している。

展示室2では、田山花袋・安藤鶴夫をはじめとする埼玉ゆかりの文学者19人の遺品・原稿など、またコレクションとしても貴重な永井荷風資料が常時展示されている。

また、展示室3では、企画展・テーマ展が年4回開催され、より多角的に、埼玉の文学を紹介している。

なお、文学図書室では、本県ゆかりの文学者の作品や文学関係資料の閲覧ができます。

桶川駅に戻り、電車にて北本駅に行き徒歩で解脱会に行きました。

解脱会聖地
昭和4(1929)年に創設された教団です。

立教以来70年あまりにわたって地道な活動をつづけてきた解脱会は、会員一人ひとりの自覚的な努力によって国家社会の精神的な基盤をささえ、公共の福祉のために有益な仕事をめざしつつ、平凡な生活者としての立場を尊重しながら、日本の文化伝統の土壌を豊かに培ってまいりました。

会祖(岡野聖憲)は、立教してから亡くなるまでの20年間に、時代に生きる新たな宗教として解脱会を組織し、これまでの宗教に見られない独自の道を示して、人類の未来を幸福に導く多くの価値ある教えや事跡をのこされました。

多聞寺
北本駅の東を走る中仙道を5分ほど南下すると左手に「多聞寺」がある。

この境内に県の天然記念物になっているムクロジがある。

根周り7.6m、目通り幹周り4.2m、樹高12mで、樹齢は200-300年と推定されている。

頭頂部の幹が折れてやや無惨な姿であるが、ムクロジの分布のほぼ北端にあってこれだけの巨木になったのは大したものである。

横には既に大きく育った若いムクロジがあった。ムクロジは秋の紅葉が美しい木で、6月頃花を付け、秋に出来る実は堅く、中の黒い種子は羽根つきの羽根の球に用いられてきた。

北本氷川神社
当社は、平安時代・貞観11年(869)の御創建とつたえられています。

素盞嗚尊を主祭神として、6柱の神様をお祀りしています。主なお祭りとして4月の人形慰労祭、 7月の例大祭などがあります。市内はもとより近隣市町村より崇敬されています。

ムクロジの大木に、赤い実が成っていて驚きました。

これにて、今日の史跡探訪は終わりました。

天候にも恵まれて楽しく、探訪が出来ましたありがとうございました。

解散した後、私は北本駅より中学のクラス会が行われている川口駅に向かいました。



# by hanaetabi | 2012-05-20 22:49 | 史跡研究会 | Trackback | Comments(0) 

苗木市・藤まつり

4月29日(昭和の日)歩こう会があり、旧中山道を歩いていたところ、中山道蕨宿開設400年記念事業の一環として、中仙道蕨宿苗木市・わらび藤まつりが、行われることを知り、歩こう会の後、見に行って来ました。

歴史的風情のある中山道蕨宿を舞台に、手づくりの工夫を凝らした催し物が行われ、市民参加のお祭りのようです。

大名行列や各種パレードは、毎年大いに盛り上がるようで、沿道には、屋台やフリーマーケット、バザーなどが立ち並び、お買い物も楽しめます。

その他、ジャズバンドによる演奏や、お楽しみアトラクションなど見どころ盛りだくさんのようです。

お稚児さん行列、中仙道をきもので歩こう会、春の収穫祭、蕨宿手打ちそば実演販売など、たくさんのイベントが開催されています。

三学院では、樹齢100年以上といわれる藤の一般公開をはじめ、蕨を知ろう、パネル展などが開かれます。

今年の藤の花は不作のようですが、お茶会あり、日本舞踊の発表会、大道芸の不思議な世界を楽しむことが出来ます。

蕨市は小さな街ですが市民参加のお祭りが多いようです。

楽しい街です。

# by hanaetabi | 2012-04-29 20:30 | 散策 | Trackback | Comments(0) 

蕨宿開設400年

4月15日史跡研究会総会の後、畠田会長うより、蕨宿開設400年について学んで来ました。

弥生時代の蕨
金山遺跡が発掘された事により、弥生時代後期には、蕨に人々が暮らしている事がわかりました。

平安時代の蕨
平安時代末期に金子右馬助一族が住み開発の祖となったとの説が有力です。

戦国時代には足利氏一門の渋川義行によって蕨城が築かれたという諸説があります。

現在の和楽備神社の藤棚あたりが蕨城の堀跡とされ、蕨城址公園にはその面影が残されています。

その後、1524年、または1526年に渋川氏が北条氏に破れ落城したとされています。

蕨宿の由来
慶長7年(1602)より徳川政権(翌年、家康将軍となり幕府開く)、中山道など五街道の整備を進めましたが、当初は板橋宿の次は浦和宿でした。

両宿の距離が約14.4kmと遠く、しかも間に戸田の渡しが(荒川の一部戸田川)があり、増水で渡れない場合困難なので、自然堤防上に宿を立てました(慶長17年=1612が有力だが諸説あり)。

宿場の周囲に堀を廻らせた特異な形態をしているが、平坦な場所に立地しているため防御上の理由と考えられています。

蕨宿は十町(約1㎞)ほどで、道幅は六間(約11メートル)と広く道の左右に街並みを形成していました。
宿場の規模は江戸近郊部では浦和宿や大宮宿を凌いで最大でした。

中山道とは
中山道は江戸と京を結ぶ二大街道で、元からあった東山道(とうせんどう)を利用している場所が多い事から、中山道(なかせんどう)と名づけられました。また、木曽山中を通る事から、木曽街道とも呼ばれていました。

江戸日本橋を基点に近江国(滋賀県)守山宿までの六十七宿の街道で守山の次の草津で東海道と合流し大津を経て京都に達します。
中山道蕨宿より

蕨郷、蕨宿の歴史、蕨宿の特徴、蕨宿の名所、旧跡、観光施設、中山道の行程、中山道の一里塚、戸田の渡し場等について学びました。

現代の交通についても学んで来ました。

今日は午前に歩こう会の定例会あり、約2時間歩き、歩こう会の総会あり、午後からは史跡研究会の総会あり、蕨宿開設400年の講演あり、畠田会長だいぶお疲れの様子でした。

最近、睡眠3時間半といっていましたが、今日はゆっくり休んで下さい。

またの講演楽しみにしています。

お世話様でした。

# by hanaetabi | 2012-04-15 18:15 | 史跡研究会 | Trackback | Comments(0) 

幕末維新人物豆知識

3月25日、中央公民館において史跡研究会・特別講演として清水隆氏(蕨在住)歴史作家・幕末史研究会31人会副会長による幕末維新人物豆知識の講演に参加し下記のように勉強しました。

新撰組と渋沢栄一
新選組とよきライバルだった見廻組。

会津藩旗本の次男坊以下で結成された集団で、京都市内を新選組と分担して見回っていた。

片やおぼっちゃま風エリート軍団、片や烏合の衆とは言え実力者集団。

平隊士レベルでは、ライバル意識むき出しで衝突することもあったが、幹部レベルでは非常に結束していて仲が良かったようだ。

勇先生や歳三と見廻組頭取の佐々木只三郎様などは、一緒に妓を買いに行ったりする仲であった(笑)(「幹部と女性達」の項参照)

慶応2年9月14日。

当時見廻組は150人程だったが、中堅幹部の大沢源次郎が薩摩論客と手紙をやりとりした、という嫌疑を受けていた。

(他に、頭取の佐々木さんと反りが合わず、40人ほどを率いて、大徳寺に立てこもってしまったという説も?)
奉行から命を受けた渋沢栄一(そう、あの渋沢栄一です。

当時は一橋家臣で、渋谷篤太夫と名乗っていた、新選組に手伝って貰い、大沢を(江戸へ護送するために)捕まえることになった。

大沢のいる大徳寺に近い鰻屋の二階で、渋沢と歳三と他二人(永倉と沖田?)が待ち合わせをした。

ここで、渋沢と新選組が少し激論を戦わせたらしい。

新選組側は、「まず、自分らが行って捕まえてくる」と言い、渋沢は「自分が命を受けたのだから自分が行く」と言う。

話は武士の面体にまで及ぶのだが、この間、歳三はほとんど黙って聞いていたらしい。

やがて、刀を掴んで新選組側(永倉と沖田?)が息巻いたときに、歳三がそれをとどめ、渋沢の意見を通したという。

この件に関しては、渋沢(とその娘)によって、かなり詳細なやりとりの記録が残されている。

新選組は、意外な事件で、渋沢栄一と接点を持っていた。

沖田総司
新撰組隊士。

奥州白河藩士沖田勝次郎の子。

近藤勇の天然理心流道場試衛館の塾頭を任じ、京都新撰組の一番隊隊長となる。

池田屋騒動で奮戦中に喀血、労咳を患う。山南敬介の脱走処分で介錯をつとめる。

江戸引きあげの後、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で没するというが、今戸説もある。

司馬遼太郎氏の小説の中で、文久2年、蕨宿の名刹・三学院において、柳郷流の師弟7人を相手に大立ち回り演じたことでも知られている。

陸援隊
海援隊に続いて結成された土佐藩の名義を借りた討幕派浪士結社。

坂本竜馬の親友で同じく土佐藩士の中岡慎太郎によって、討幕の軍事クーデターの為に結成された。

本拠地は京都に置かれ、討幕の機会を見つけたらすかさず決起、京都を制圧するのが仕事。

軍事力はあっても金はないので、海援隊から金銭の援助を受けている。

実際には、鳥羽・伏見の戦いが始まる前に中岡・坂本の両名が暗殺されてしまったので、大した活躍は出来なかった。

しかし、その構成員の多くが新政府軍の中では高位に位置している事から、かなりの実力者の集団であったと思われる。

武州榛澤郡下手計村(深谷市)出身の川上邦之助は、幕末京都に上り、陸援隊に入ったようです。

中岡の死後は土佐藩小監察谷干城の指導を受け、鳥羽・伏見の戦いの後解散。

隊員は土佐藩軍に編入された。

伴門五郎
伴門五郎貞懿(さだよし)(1839年~1868年)は、蕨宿の名主岡田平左衛門の三男に生まれました。

叔父の伴経三郎貞栄の跡をつぎ、柳剛流剣術家岡田十内に入門しました。

幕府に仕えて徒士隊に入り、文久3年(1863年)将軍家茂の上洛、慶応元年(1865年)長州征伐に従軍し、翌年陸軍調役になりました。

彰義隊の結成当初からこれに加わり、のちに彰義隊頭取に就任しました。30歳のとき上野戦争で戦死しました。

三學院に「伴門五郎の碑」が建っています。

墓は谷中の全生庵にあります。

古屋佐久左衛門
九州久留米の高松家出身で、弟は医師、高松凌雲。医者を志して江戸へ出たが、蘭学と英語を学ぶ事によって類稀なる非凡な才能を開花させる。その才能が縁となって、旗本古屋家の養子となる。

下戸田(戸田市)出身の柳郷流師範・岡田十内の門人でもある。

横浜で更に歩兵術を学び、やがて幕府に歩兵術の教官として仕官する。『英国歩兵操典』は彼の得意語学である英文歩兵書を翻訳したものである。

幕府瓦解後は箱館政権軍の要となる陸軍部隊である「衝峰隊」を編成し、今井信郎や永井蠖伸斎など歴戦の兵を引率して、北陸地方を中心に官軍と抗戦する。しかし、その抗戦もあえなく敗北をし、仙台で榎本軍と合流する事となる。

「一に衝峰」と例えられていた、衝峰隊は最後まで奮戦したが、5月12日の官軍の海軍による五稜郭への艦砲射撃に被弾。

横腹をえぐられる重症を負い病院がある湯ノ川へ運ばれたが、その2日後に死亡した。

彼が死ぬ間際まで付けていた「日記」は、英語で記されていたものだと云う。

忍藩
戊辰戦争がはじまると官軍の進撃によって、江戸にいた旧幕府軍の部隊が佐幕派の忍藩になだれ込んできた。

総勢850名にもおよぶ部隊を率いるのは歩兵指図役頭取・古屋作左衛門(ふるやさくざえもん)であった。

彼らは忍藩をもって佐幕派の中枢と成すと勝手に思い込んで乗り込んできた。

忍城に篭城して官軍と一戦するというのである。

忍藩が旧幕府軍の暴挙に困り果てていると、中仙道を南下してきた官軍が忍藩に迫ってきた。

東山道総督・岩倉具定(いわくらともさだ)は、忍藩に対して「忍藩の態度はすこぶるあいまいである。

慶応4年、東山道総督府の軍使としてやってきた加納伊豆太郎(元新撰組隊士)から、帰順するなら、速やかに藩中にいる幕軍を撃ち払え、さもなければ一戦もあるのみと脅されたようである。

勤王の姿勢を取るのであれば、城下に停泊している幕府軍を追い払うべし。

もし、佐幕の姿勢を取るならば、攻略する」と忍藩に伝達してきた。

忍藩ではいかに第一の親藩と誉めそやされても、もはやそれに耐え得る気力がなかった。

仕方なく、旧幕府軍に軍資金600両とわらじ千足を渡して、彼らになんとか立ち退いてもらっている。

この後、忍藩は新政府の奥羽鎮撫の部隊に吸収され、白河・二本松・会津へと転戦した。

佐幕派の盟主とも成り得る位置にいながら、戊辰戦争が始まる前にすでに忍藩は疲弊してしまった。

幕府政策の無理難題を処理するために忍藩がその重荷に耐え、請け負っていたためである。

しかし、幕府の余りにもひどい無理強いによって、さすがの忍藩も耐え切れなくなってしまったのである。

その意味で、幕政による国事遂行がいかに無理をしていたかを知ることができる。

伴鉄五郎
先手与力の桜井家から、御徒を務める伴家の養子に入る。

伴門五郎の叔父にあたります。

嘉永4年(1851年)に御徒となる。

安政3年(1856年)、箱館奉行支配調役並に任ぜられ、長崎海軍伝習所二期生となる。

伝習終了後の安政6年(1859年)、軍艦操練所教授方出役となっている。

万延元年(1860年)、咸臨丸の測量方として太平洋横断に成功した。

帰国後小十人格軍艦操練所教授方頭取出役、文久元年(1861年)、両番上席軍艦頭取に進む。

文久2年(1862年)朝陽丸艦長を命じられ、小笠原島開拓に参加。その際、咸臨丸の見習士官であった根津、岡田、小杉を率いている。

慶応4年(1868年)軍艦頭となった。

維新後も徳川家に従い、沼津兵学校一等教授となる。明治5年(1872年)海軍に移り、水路局長柳楢悦の副官を務めた。

また、勝海舟、木村芥舟とともに『海軍歴史』の編纂に加わっている。

中山幾之進と山南敬助
山南敬助との付き合いは、山南が近藤と立ち合って負け、その後、山南が近藤の門人になったのが始まりであると云われています。

山南が大久保道場の門人として中山幾之進と立ち合ったのが、嘉永6年(1853)の4月と考えられ、また万延2年(1861)の1月に山南が多摩での新年の稽古に参加している記録が残っていることから、嘉永6年(1853)の後半から、遅くとも万延元年(1860)の間に2人は出逢ったと考えられます。

新年の稽古に参加した同じ年の8月に行われた近藤勇四代目襲名披露の野試合に山南を参加させたり、また多摩の出稽古に一緒に行っていることなどから、近藤が山南を重んじていたことがわかります。

元々は仙台藩の武士の生まれであり、博学、剣術も優れていたと云わる山南から、近藤自身も学ぶことが多かったのでしょう。

それは浪士組として京に行く時、また京にて壬生浪士組(後の新選組)を結成することになった時も同じであり、近藤勇にとって山南に頼る部分は大いにあったはずです。

しかし山南が負傷して表舞台に立てなくなった以後、近藤と山南の関係も見えなくなってきています。

元治2年(1865)2月22日に山南が脱走した理由として、近藤や土方への不満、不仲説などが挙げられています。

また23日、山南を壬生屯所に連れ戻し、近藤は山南に切腹を言い渡し、近藤の見届ける中、山南は見事な切腹を遂げ、「浅野内匠頭でもこうみごとにはあいはてまい」と賞賛したと云われていますが、脱走も含めて、史実は定かではありません。

山南死後も、近藤は新選組の局長として活躍しましたが、時代の流れには逆らうことができず、慶応4年(1868)4月25日、板橋宿にて処刑となりました。

一本杉の仇討
浦和宿を外れJRを浦和橋で渡ると電線地中化と歩道の整備により非常にすっきりした中山道が続く。

北浦和駅の少し先の廓信寺は、さつま芋の紅赤発祥地だそうだ。

また、この少し先の一本杉碑の辺りで仇討で討たれた河西雄祐之助の墓がある。

文久四年(1864)、水戸藩家臣宮本鹿太郎が父の仇として本懐をとげたものである。

明治六年(1873)に仇討禁止令が発布される9年前のことです。

次の漢詩は、武藤道之助が蕨宿で読んだものです。

幾歳沈戈涙不収 春風蕨駅志初酬 未乾腰剱仇頭血 要塵金川雪國讐

仇討にも参加したようです。


雲井龍雄
米沢藩士中島惣右衛門の次男として米沢に生まれました。

小さい頃から勉学に優れていた龍雄は、14歳から藩校「興譲館」に学びました。

22歳で米沢藩の江戸藩邸に出仕。

そのかたわらで安井息軒の三計塾に入門し、さらに学びを深めていきました。

その中で全国から集まった塾生と交友を広めると共に、時勢に目覚め、日本の将来を真剣に考えはじめます。

幕末の混乱期には米沢藩の命を受け帰藩。

その後京都で活動します。

その中で薩摩藩の横暴を目にした龍雄は、戊辰戦争中に薩摩藩を批判した漢詩「討薩檄」を作っています。

戊辰戦争終結後、龍雄は米沢藩の推薦を受け新政府の集議院に勤めますが、戊辰戦争中の言動などが仇となってしまい、ひと月足らずで集議院を追われてしまいます。

それでも自分の信念・理想を貫いた龍雄は、政府に不満を持つ人々を集め「帰順部曲点検所」を組織し、新政府に対抗しようとしますが、この行動が政府への陰謀とみなされ逮捕。

27歳で刑死しています。

蕨宿の農民徳次郎の次男次助は、中間として身近に仕えていたようです。

本日もたくさん、勉強しました。

また、講演聞きたいです、ありがとうございました。












# by hanaetabi | 2012-03-25 19:48 | 史跡研究会 | Trackback | Comments(0) 

田端文士村を歩く。

19日(日)史跡研究会に参加しました。

蕨駅9時集合・出発(京浜東北線)~田端駅~芥川龍之介住居跡~与樂寺~田端文士村記念館~八幡神社~東覚寺~大久保寺~光明院~八幡社~大龍寺~昼食後に解散しました。

芥川龍之介住居跡
住居跡地」案内板・・・今はこの案内板きり残っていませんが、芥川龍之介はこの地に大正3年(1914年)から昭和2年(1927年)までの13年間生活し、「蜘蛛の糸」「羅生門」などの作品を書き、やがてこの地で服毒自殺しています。

コースでは最初に田端文士村記念館に行く予定が10時開館というととで、最初が芥川龍之介住居跡地でした。

芥川龍之介の旧居跡は現在、古い万年塀が残っているが、芥川居住当時のものではなく塀に沿って植えられているのは山茶花(さざんかです。

芥川龍之介はこの家で「羅生門」などの名作を世に出しました。

芥川龍之介の墓地は、巣鴨の慈眼寺にあり、そこには谷崎潤一郎も眠っています。

与樂寺
六阿弥陀詣での4番目として知られる寺です。

本尊の阿弥陀如来は女人成仏の本尊として広く信仰されてきました。

境内には南北朝時代のものとされる「四面四仏」を浮き彫りにした石塔(仏塔)があります。

また、この寺には「賊除け地蔵伝説」という言い伝えがある。

昔、盗賊がこの寺に押し入ろうとしたとき、本尊の地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い返したというもので、地蔵菩薩は賊除地蔵として信仰を集めるようになりました。

田端文士村記念館
芥川龍之介、小杉放庵、室生犀星、板谷波山など、田端を拠点にした文士・芸術家たちの作品資料の展示や 講演会などさまざまなイベントが行われます。

田端は明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村でしたが、 明治22年、上野に東京美術学校(現、芸大)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになりました。

明治33年に小杉放庵、36年に板谷波山が移り住むと、吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家)、 山本鼎(洋画家)らが 次々と田端に住むようになり、親睦団体「ポプラ倶楽部」も生まれ、明治末期には 芸術家による「芸術村」のようになりました。

そこへ、大正3年に芥川龍之介、5年に室生犀星が田端に住み始め、彼らの文士としての名声が高まるにつれ、 萩原朔太郎、堀辰雄、菊池寛、中野重治らも田端に移り住むようになり、 大正から昭和の初めにかけて、田端は「文士村」となりました。

田端八幡神社
文治5年(1189年)源頼朝が奥州征伐の帰途この地に立ち寄り、鶴岡八幡宮を勧請して創建されたと伝えられています。

以後、田端村の鎮守として信仰を集めてきました。

狭い参道の奥、やや高台になったところに本殿があります。

現在の社殿は平成4年(1992年)の再建です。

境内には本殿のほか、稲荷社、富士浅間社、三峰社があります。

南に隣接している東覚寺はもとはこの神社の別当寺であったが、明治元年の神仏分離令により分離しました。

それまでは現在東覚寺にある赤紙仁王像はこの神社の参道入り口にありました。

また参道の一の鳥居手前には、暗渠となる前の谷田川に架かっていた石橋が保存のために埋め込まれています。

東覚寺
延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違橋(万世橋のあたり)に創建したと伝えられています。

その後、根岸に移転しました。

さらに慶長の初め頃(1600頃)、現在地に移ったということです。

幕府からは朱印地7石を寄せられています。

かつては隣接する田端八幡神社の別当であった。

また、江戸の七福神めぐりで最も早く成立したとされる谷中七福神の福禄寿を祀ります。

境内には金色の大日如来像や阿弥陀如来像をはじめ、多くの仏像が並びます。

大久保寺
もとは小田原にあり、文禄元年(1592年)大久保彦左衛門の長兄である大久保相模守忠世が大久保一族の菩提を弔うため創建したのに始まります。

大久保家と大久保家にゆかりの深い伊勢亀山藩石川家の菩提寺であり、墓地には忠世の長子大久保忠隣の墓があります。

忠隣は二代将軍秀忠の老中となったが、政争に敗れて失脚しました。

寺は寛永7年(1630年)江戸下谷に移転し、その後明治36年(1903年)現在地に移転しました。

本堂裏には日蓮聖人腰掛け岩があります。

光明院
豊島八十八ヶ所霊場9番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場20番札所、光明院幼稚園併設しています。

光明院幼稚園は、学校教育法に基づき、幼児によい環境を与えて、個性を伸ばし、心身ともに健康な子どもに育てます。

自主的で、思いやりがあり、正しい判断力をもつように指導しています。


田端八幡神社
文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されと伝えられます。

江戸期にひあ、田端村の鎮守でした。

この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。

神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。

別当寺は東覚寺でした。

現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。

江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。

参道の中ほど、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。

これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためここへ移されました。

社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。

境内には、稲荷社のほかに田端富士三峯講が奉祀する富士浅間社と三峰社があり、富士浅間社では毎年2月20日に「富士講の初拝み」として祭事が行われています。
(北区教育委員会)


大龍寺
創建は明らかではありませんが、 慶長年間(1596-1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781-1789)になって 湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して、大龍寺と改称したと伝えられています。

本堂わきの墓地には、俳人・正岡子規、宮廷音楽家・E・H・ハウス、陶芸家・板谷波山、柔道の横山作次郎などの著名人が永遠の眠りについています。

正岡子規は、「静かな寺に葬って欲しい」と、日頃から弟子に話しており、武蔵野台地の端にあり、林に囲まれて静かなこの寺が選ばれたそうです。

お墓は大きくはありませんが、横に自撰の碑文があり、松山藩士の子であることや、 陸羯南の日本新聞から貰っていた月給が三十円であったことまで書かれています。

竹ノ里人の号に因んで植えたのか、墓の後ろには竹が茂っています。
北区教育委員会

寒い中、7人で田端の街を歩きました。

田端って芸術家の多い町だったんですね。

今日も勉強になりました。

ありがとうございました。

# by hanaetabi | 2012-02-19 21:26 | 史跡研究会 | Trackback | Comments(1) 

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